Mag-log in大陸を南下したところに砂と岩に囲まれた小さな国がある。
照りつける太陽の熱で暖められた土地は水分を蓄えることができず、緑などほとんど見ることができない。
通常ならば人が住めるような環境ではないそこに国が生まれたのは、ある鉱石が採掘されたからだ。
鉱石の名は『
美しくきらめく蒼の石は研げば細くしなやかな剣やナイフとなり、磨けば空を思わせる宝石となった。夜には星の輝きを蓄えて人々を照らし、昼間には凪いだ海のように生きるものを癒す。
不思議な力と魅力でもって多くの人を魅了した鉱石は瞬く間に大陸に広まった。
一方で、蒼鋼には国をひとつ作ってしまうほどの採掘事情があった。
蒼鋼はとある洞窟の中でしか採掘されない。大陸中どこを探しても他の地域では決して見つからなかったそうだ。さらには蒼鋼が採れる唯一の洞窟内にはガスが充満していた。このガスは人に悪影響を及ぼした。採掘できねば人々の生活に支障がでるが、採掘を続けると死者がでる。残酷な天秤を保つためには、そこに国家を築いて人を集め、流動的な採掘部隊と計画でもって管理するしかなかった。
こうして作りあげられた国は一時、栄華を極めた。
しかし、加工技術が進み、蒼鋼に頼らずとも他の鉱石で事足りるようになると、国は当然衰退を始めた。もともと人が暮らすには不便な土地だ。次第に人は減った。残った数百人の人間を国が徹底的に統治し、囲いこんで外へ流出させないことでなんとか国としての体面を保っているにすぎない。
そして今、国は蒼鋼の採取にあたっても特別なルールを設けている。
蒼鋼を採掘するのは十年に一度だけ。採掘に行けるのは十歳から十五歳までの少年少女、それぞれひとりずつ。選ばれしものには特権として自由が与えられる。すなわち、国外逃亡を許すというものである。
蒼鋼はちょうど子供くらいのサイズのものもあれば、小柄な女性程度のものもある。採れる数は多くないが石ひとつが大きいので、一度採掘すれば向こう十年分の国益があげられる。そんな計算だ。
当然、閉ざされた国の外に出たいという若者は少なくない。だが、そもそも十年に一度しか採掘が行われないため、生まれた年によっては選考基準を満たせないこともある。年齢以外にも条件はあるようだが、審査内容はおろか誰が選出しているのかも明かされてはいない。そうした秘匿性や希少性が採掘という行為そのものの格式を高めていることも、選ばれしものの名誉に直結している。
みなのために危険な洞窟へ出向き、採掘をして国に利益をもたらす。褒美に自由を与えられ、国を巣立つ。
そんな少年少女を国のものたちは自由の象徴である鳥の名を用いてこう呼ぶ。
『蒼鋼のカナリア』と。
その日、国は十年ぶりに賑わっていた。カナリアを選ぶ日が訪れたのである。
もはや村と変わらぬ規模となった国の中心部には蒼鋼を模した青い柱が乱立し、柱と柱の間にはランタンや旗がつるされていた。降り注ぐ直射日光など気にせず人々は村の広場で飲んで踊っての大騒ぎを繰り広げている。
一方、それらを横目に盛り上がっている集団がもうひとつ。カナリアに選ばれるのは誰か、少年少女の行く末が酒の入った大人たちの賭けの対象となっているのだ。みなが注目するカナリアの選出は夕方から。それまでの退屈しのぎだ。
筆頭候補はマリと呼ばれる少女だ。彼女は誰もが認める聖女であった。
国内唯一の教会で神父として勤める男のひとり娘。由緒正しい出自もさることながら、見た目や才能にも恵まれ、慈愛に満ちた性格の持ち主だ。まさしく神に愛されていると言っても過言ではない。
マリ自身も神を愛し、学校に通う傍ら教会でシスターとして働いている。彼女は生まれ持った気質で人々を助け、生きとし生けるものを愛し、死を悼んだ。他者のためならば自己犠牲もためらわない彼女に救われたものは多い。十五にして、マリは国の中で最も慕われている人物のひとりに違いなかった。
カナリアの少女枠はマリで決まり。そんな空気が一年以上も前から国内には漂っている。
そんなわけで、今回の賭けを盛り上げたのは少年たちであった。これといった有力な候補がいないので大人は本人たちを差し置いてあれやこれやと持論を戦わせた。
国の長の息子だという声があれば、彼は性格が悪いと言うものが出てくる。では、蒼鋼の細工師の息子はどうだとなれば、あいつは頑固者だからと返答がある。では……と何人もの少年がやり玉にあげられ、デリカシーのない悪意に晒された。
一年ほど前から少年たちはこうした大人たちの金品の動きを観察し、勝手にプレッシャーを感じたりもしていたわけだが、それも今日で終わると思えばいくらか気が晴れていた。態度にこそ出さないが、少年たちはカナリアに選ばれる期待よりも大人たちの注目から逃げ出せることに安堵を覚えていたくらいだった。
夕日が地平線に降り立つころ、カナリアの発表を告げる鐘が鳴る。国中に乾いた音が響き渡ると、喧騒はたちどころに消えた。
国民全員が広場から城のバルコニーを見上げる。みなの集中はその一点に注がれ、誰ひとりとして声をあげることはない。
やがて鐘の残響が止むと、うやうやしくバルコニーが開いた。
国王自ら無駄に豪勢な巻物を手に広げ、民たちに視線を送る。王の目はやがて赤く染まった地の果てから夕陽を背に受け大きな口をあけている遠くの洞窟へと移された。黒々とした洞窟の奥は王の目にも全貌を映さない。
国王は祈るように目を伏せると、しわがれてもなお威厳ある声で朗々と告げた。
「民よ、我が国にカナリアの降り立つ日が来た。国を潤すさえずりがここにくだされたのだ。今から名を呼ぶものは王命を全うせよ」
名が呼ばれるその時をみなが固唾をのんで待っていた。
果たして、王の口から出た名は……。
「マリ、シュヤの二名をカナリアとす!」
祝福よりも戸惑いからくるさざめきが起きた。広場に異様な空気が満ちる。
奇妙なざわめきをかき消したのはシュヤ本人による驚嘆とマリの喜色に満ちた声だ。続けて賭けに負けたほとんどの大人たちによる悔しがったり落胆したりする声が広がる。勝ったごく少数の大人が雄たけびをあげたことで祭りの盛り上がりは一気に最高潮へと達し、カナリアの選出は無事に幕を閉じた。
さて、見事カナリアに選ばれた少年、シュヤは多くの大人たちから金品を巻きあげた。シュヤはそれほど平凡な少年だった。
選考基準が明かされていないため彼が選ばれた理由は神のみぞ知るところであるが、唯一彼の特徴をあげるとすればマリと幼馴染であるということだろう。国民の数が減り、もはや小さな村と化している国では子供の数も多くはない。そんな中、マリと同じ年に生まれた子供たちは両手で数えられる程度だ。シュヤはそのひとり。マリとは家が近いこともあって、特に昔から仲が良かった。
しかし、マリの放つ光が大きすぎたため、シュヤはいつだって日陰者で目立たなかった。
日陰者と言っても、決して彼が虐げられていたわけではない。野に咲く花のように背景に馴染み、空に浮かぶ雲のように気にされることすらない。シュヤはいつだってそこにいるだけの存在で、その場にいなければ忘れられた。だからこそ彼は真の意味で目立たなかった。
それが、一夜にして物語の主役だ。
シュヤ自身が誰よりも事実を受け止めきれていなかった。
シュヤは自らの頬をつねり、
「痛っ……」
と思わず声をあげる。
隣にいたマリが心配そうに、けれどシュヤの行動に理解を示すような態度で尋ねる。
「大丈夫?」
「はは、ごめん。夢かと思って」
シュヤのありきたりな返事にも、マリは穏やかにうなずいた。
「うん、よくわかる。私も夢みたい」
「マリも? 俺、マリは絶対に選ばれるって思ってたけど」
「それは……、私も選ばれたら嬉しいなって思ってはいたよ。でも、絶対なんてこの世にはないでしょう? それに、私より素晴らしい人たちはたくさんいるもの」
「それはそうかもしれないけどさ。そんなこと言ったら、俺のほうが」
いまだ現状を疑うシュヤに、マリは真剣な顔で首を左右に振った。
「そんなことない。私はシュヤが選ばれると思ってた。一緒に行くならシュヤがいいなってずっと神さまにお願いしてたのよ」
マリの言葉はいつだってまっすぐ心に響く。それはきっと本心からの言葉だからだとシュヤも長い付き合いの中でわかっている。だからこそ、シュヤはそれ以上自身を卑下することも謙遜することもできずにうなずくしかなかった。
「……ありがとう」
いつからか芽生えていた淡い恋心を意識せずにはいられず、シュヤは黙り込む。
マリは彼の思いなどつゆほども知らずにシュヤの両手をぎゅっと握った。
「明日から頑張ろうね」
「うん」
「それじゃあ」とマリは会話を切り上げて彼女の名を呼ぶ大勢の人たちのもとへ駆けていく。
色とりどりのランタンに照らされて流れ星のように輝くマリの髪を追い、シュヤは決意した。
――無事に蒼鋼を採掘できたら、マリに好きだと伝えよう。
朝、シュヤは異変に気づいた。 喉の渇きからくる痛みを覚えて目を開けると、隣で眠っていたマリがなにやら苦しそうに下腹部を抱えて体を丸めていた。「マリ? 大丈夫?」 慌ててマリの背をさすると、マリはくぐもった声で歯切れ悪く答えた。「……月のものが……きたかもしれなくて」 体が重くてだるい。下腹部に石でも入ったかのようにずんと鈍痛がある。途切れとぎれにマリは症状を打ち明けた。まだ出血が始まったような感覚はなく、少したてばよくなるだろうとマリは続ける。「何かしてあげられることはある? 欲しいものとか、して欲しいこととか」「ううん、大丈夫よ。それより、早く、採掘を始めなくちゃ……」「そんな! 採掘は俺がやるから。マリは寝てたほうがいい」 必死に体を起こそうとするマリをシュヤは制止する。だが、マリは首を縦には振らなかった。シュヤの制止を振り切って上半身を無理やりに起こす。「マリ!」 シュヤが非難の声をあげるも、マリは聞かなかった。「みんなの役に立ちたいの」「無理しちゃダメだ。ここに来るまでもマリは充分頑張ってたんだし、採掘は俺だけでもきっとやれるよ」「私が言うみんなの中にはシュヤも入ってるのよ?」 空のように青く澄んだ瞳がシュヤを映す。意志の強さが宿った瞳が。「蒼鋼は最低でも子供くらいの大きさだって。そんなのひとりで採掘してたら、きっと日が暮れちゃうわ。ここに長くとどまれば、シュヤだって体調を崩す
三日目、夕暮れの迫る砂丘。本来であればテントを建てるべき時間だが、シュヤとマリはまだ歩いていた。 目的の地、蒼鋼の採掘場が見えていたからである。「あれだ……」 突然砂地の中に現れた大きな岩山は蜃気楼の奥、まるで水面に島が浮いているように見えた。逆光で黒くそびえるそれは今にもシュヤを飲み込まんとしている。くっきりと浮かび上がるゴツゴツとしたシルエットは、なだらかな砂地と果てのない空だけが続いている世界には到底似つかわしくない。そのせいで洞窟だけがこの世から切り離されているようにも思えた。 洞窟の奥から風の吹き抜けてくるような音が聞こえ、シュヤたちは足を止める。 互いに顔を見合わせれば、そのどちらの顔にも緊張と不安、喜びと興味が読み取れた。「ついたね」「うん、ついた……」 洞窟内にも獣はいないと聞いている。そもそも、洞窟の中には人体に影響を及ぼすほどのガスが充満しているのだ。長時間中にいて生きて出られるものはいない。わかっているのに、それでも少しの恐怖が足をすくませる。 ふたりの背後には夜が迫っていた。 朝になってから洞窟の奥へ進むべきか、それとも、今中に入ってしまうか。 シュヤが迷っているとマリが先に一歩を踏み出した。「中に入ってみない? 危険を感じたら引き返せばいいし、そうじゃないなら採掘は一日でも早いほうがいいでしょ?」 マリの言うことは正しい。国ではみんなが新たな蒼鋼を待ちわびている。国益はいつ底をついてもおかしくない。シュヤたちだって採掘が終われば自由になれる。まだ食料は潤沢にあるし、休むのは採掘が終わってからでもいい。
出発の日はすぐに訪れた。 そもそも準備は国の衛兵と医師による身体検査と家族や友人たちとの送別だけ。それ以上何かを待つ必要もなければ、現実問題として十年分の国益が尽きかけている状況で悠長にもしていられない。そんなわけで、最低限の出立の儀を済ませたふたりはカナリアに選ばれてから三日と経たずに国を出ることを決めた。 出発の日の朝。 採掘に必要な道具と一生を暮らして余りある金がシュヤに、採掘が完了するまでに必要な食事や水、寝袋などの生活用具はマリに渡された。 多くの人に見送られ、シュヤとマリ、幼馴染の少年少女の旅が始まる。 国から一歩も出たことがない子供たちはまず果てしない砂地に目を剥いた。 視界に見えるのは砂の灰がかった淡い黄褐色か空の青のみ。人の姿もなければ建物や動植物など見えるはずもない。同じ景色がどこまでも続く。あえて違いを探すならば、ところどころに転がった大きな岩の形や模様くらいだろうか。それも気休め程度だが。「なんだか、ずっと同じ場所を歩いてるみたい」「そうだね。目印もないし」 掴めない距離感に戸惑いと不安を感じながらもシュヤたちは衛兵から言われた通りに足を進める。国から洞窟までの距離は子供の足でも三日ほど。午前中は東から昇る太陽を右手に真っ直ぐ進み、午後は歩けるところまで歩く。日が沈むとすぐに暗くなるので、陽が西へと傾き始めたら寝床を準備する。絨毯を敷きテントを立てるだけだ。後は食事と暖を取って寝るだけ。これがもしも雄大な冒険譚ならば三日間の旅路の中で恐ろしい獣に遭遇してしまったり、嵐に見舞われたりするのだろう。しかし、これは冒険譚ではない。洞窟まで続く砂丘には獣もおらず風も穏やかで、野営をしたことがないシュヤ達にもやさしかった。 シュヤとマリは大人たちの言いつけをきちんと守り、一日目を難なく過ごした。&
大陸を南下したところに砂と岩に囲まれた小さな国がある。 照りつける太陽の熱で暖められた土地は水分を蓄えることができず、緑などほとんど見ることができない。 通常ならば人が住めるような環境ではないそこに国が生まれたのは、ある鉱石が採掘されたからだ。 鉱石の名は『蒼鋼』という。 美しくきらめく蒼の石は研げば細くしなやかな剣やナイフとなり、磨けば空を思わせる宝石となった。夜には星の輝きを蓄えて人々を照らし、昼間には凪いだ海のように生きるものを癒す。 不思議な力と魅力でもって多くの人を魅了した鉱石は瞬く間に大陸に広まった。 一方で、蒼鋼には国をひとつ作ってしまうほどの採掘事情があった。 蒼鋼はとある洞窟の中でしか採掘されない。大陸中どこを探しても他の地域では決して見つからなかったそうだ。さらには蒼鋼が採れる唯一の洞窟内にはガスが充満していた。このガスは人に悪影響を及ぼした。採掘できねば人々の生活に支障がでるが、採掘を続けると死者がでる。残酷な天秤を保つためには、そこに国家を築いて人を集め、流動的な採掘部隊と計画でもって管理するしかなかった。 こうして作りあげられた国は一時、栄華を極めた。 しかし、加工技術が進み、蒼鋼に頼らずとも他の鉱石で事足りるようになると、国は当然衰退を始めた。もともと人が暮らすには不便な土地だ。次第に人は減った。残った数百人の人間を国が徹底的に統治し、囲いこんで外へ流出させないことでなんとか国としての体面を保っているにすぎない。 そして今、国は蒼鋼の採取にあたっても特別なルールを設けている。 蒼鋼を採掘するのは十年に一度だけ。採掘に行けるのは十歳から十五歳までの少年少女、それぞれひとりずつ。選ばれしものには特権として自由が与えられる。すなわち、国外逃亡を許す
マリックは早速ミアを王宮へ連れ帰った。正しくは拉致か誘拐だと罵られるべき行動だったが、民たちにとってマリックは特殊な立場だ。それらはたちまち一種の婚約儀式あるいは運命の恋愛物語として昇華された。 呼びつけた駱駝車にミアを押し込め、隙間風すら許さぬようにきっちりと荷車の扉を閉める。直後、マリックは二十年の人生において今日は最も素晴らしい日だと実感した。――したはずだった。「おい、なぜそんな不満そうな顔をする」 王宮につき、ミアに侍女をつけ、風呂に入れ、着飾らせ、自分の部屋へと連れて来させたところまではよかった。 だが、肝心のミアがそれはもう大層な困惑と悲哀、そして怒りをマリックに向けたのである。「なぜ、このようなことを」 ミアは最小限の言葉で不平を口にした。 ミアは美しいだけではなく、聡明で勇敢だった。 だからこそ、権力にたてつき、マリックの機嫌を損ねてしまっては命がなくなってしまうことも理解している。しかし、だからと言って黙っていられるほど自分を卑下してもいない。ミアはまっとうに自分を大切にする方法も知っている。 彼女の批判はそれらを包括した口ぶりであった。 残念なことに、マリックのほうがそこを理解していなかった。自分に言い寄られて嫌がる女性などいないと信じて育ってきたし、自分の思い通りにならないことなどこの世にはないと疑ってこなかった。 だから、彼はミアの言葉の裏側を察しようともしなかった。「お前のことを気に入ったからだ」 あっけらかんとマリックは言い放つ。さらには、なるほどこの女は俺を前にして緊張しているのだなと、勘違いすることで自身の心
サラハは砂漠に湧き出た泉を中心としてできた国である。 砂漠の中心にありながら東西南北の大きな国々の交易路として栄えてきた。 その昔、サラハは国々を渡り歩く旅商人たちが休むためのオアシスであったが、そこに定住するものが現れ始め発展したのである。 今、そのサラハを統べるのはサーラの一族だ。交易や観光で得た金銀財宝を肥やしに成り上がり、国家の繁栄とともに王権は十三代にわたって続いている。 周囲に国がないため侵略に怯えることも争いが起こることもない。周囲を砂に囲われ行く当てのない民たちは当然反逆を企てることもない。オアシスに湧く水を国中に引いたことでサラハ全土にはいつだって最低限の食べ物や飲み物があり、緑も育つ。となれば、誰しも刺激はないが穏やかな暮らしを送ることが可能だ。砂漠という厳しい環境の中でもみな平穏を当たり前に享受して生きている。 それは次期国王と名高い王子、マリック・ル・サーラも同じであった。 生まれながらにして選ばれしもの。サラハの民であることを示す褐色の肌に、王家を象徴する群青の髪。見るものを虜にする碧い瞳は、サラハでは決して見ることのできない海を思わせる。整った目鼻立ちに均整のとれた体つき。甘い声色を兼ねそろえたマリックは、王や王女はもちろんのこと、周囲の大人たちから甘やかされて育ってきた。兄弟もおらず、親戚に年の近い子供も生まれなかったため、年々その状況に拍車がかかった。外の世界を知らず、すべてを意のままにできた彼は傲慢で傍若無人。気に食わないことがあれば腹を立て、騒ぎ、時には殺さぬ程度に制裁を加えることもあった。 マリックは満たされた生活にどこか不満や退屈を感じていたのかもしれない。 そんな彼の人生を変えるできごとが起きたのは、サラハに長い長い夏が訪れた日のこと。 マリックの興味を引きつけたのは、とある旅商人の噂だった。







